私はいつも「目に見えないもの」と戦っている

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私はいつも、「目に見えないもの」と、戦っている。向き合っている。それだけを見ている。それにしか興味がない。それが私なんだ。

…ということが、最近ちょっとわかった。

 

僕はカルカソンヌ日本選手権で毎年トップ4に入っている。

でも自分でもどうしてそんな成績が出せるのか、さっぱりわからなかった。

僕は他のトップクラスの選手達のように、的確に出現したタイルを暗記しているわけじゃない、だから確率計算も雑だ、相手のコマをばんばん殺すわけでもないし、得点効率がいいわけでもない。

でも僕は勝てる。

その理由について、とある他のカルカソンナーが僕の打ち手を研究してくれてたらしく、その結果を教えてくれた。

 

結論からいうと僕は、いつも相手のコマを完全には殺さないんだって。

その代わり、残りの待ちが少ない「生殺しみたいな状態」を何箇所も作るんだって。

 

完璧に殺したコマを一箇所作るのではなく、生殺しのコマを三箇所作る。

だからその間、相手は動きづらい。打ち手が制限される。

その間に、僕はどんどん細かい得点を広げていく。

そこで差をつけている。

 

これは格闘技で例えるなら、普通の選手は「いかにして相手の腕を折る」とか、「いかにして必殺の一撃を入れるか」とか、そういう次元で戦ってるんだけど、僕はそうじゃなくて、「相手の腕も足も頭も首も腰も、全体的にじわじわと痛めつけて、相手を弱らせるような戦い方をしている」らしい。

これだと相手としては、「まだ明確に腕が折られたわけではない」し、「まだ明確にいいパンチをもらったわけでもない」ので、いつまでも「まだいける」と認識する。

でもそう思っているうちに、いつの間にかどんどん全体的に弱体化させられていき、気付いたときには、「もうパンチをしてもキックをしても何をしてもいつものポテンシャルが発揮できない状態」となる。

 

そうなってしまえば、もうこっちのものだ。

あとは相手が何をしてきたって、僕は簡単にそれをさばく、いなす、倒すということが可能になる。

それができてしまう。

だって相手はもう弱体化させられているんだもの。

 

…僕はこうしていつも勝利しているらしい。

 

でもそう言われてみると、「あぁ確かにそうかもしれない」という感じがした。

僕はいつも、目に見えない部分で戦ってる。

これはカルカソンヌだけじゃない。

格闘ゲームをしててもそうだ。

商売をしててもそうだ。

勉強もそうだ。

人生の全てにおいて、僕はいつも「目に見えない部分」だけを見ている気がする。

 

僕は、「目に見えるわかりやすい部分」には、全く興味がわかない。情熱が向かない。

だからコンボ数を稼ぐこととか、相手のコマを殺すこととか、テストの点数を上げることとか、そういうのはどうでもよかった

そういうものに興味が湧いたことは、人生で一度もない。

 

コンボ数を稼ぐことは、手段であって目的ではない。

目的は相手のHPをゼロにすることだ。

 

相手のコマを殺すことも、手段であって目的ではない。

目的は最終的に相手より高得点をとることだ。

 

テストの点数をあげることも手段であって目的ではない。

目的は幸福な人生を送ることだ。

自分の人生の可能性を広げることだ。

 

ブログのアクセス数をあげることも手段であって目的ではない。

目的はお金を稼ぐことだ。

 

さらに言うならお金を稼ぐことすら、手段であって目的ではないのかもしれない。

目的は自分という人間が、この社会で何らかの役目を担うことだ。

自分の人生に、自分の存在理由を示すことだ。

 

僕はこんな風に、より「本質的な意味での目的」だけに目を向けて生きていたように思う。

それにしか興味がないのだ。

その前の過程の部分、目に見えるわかりやすい部分は、僕にとってどうでもいい、瑣末なことなのだ。

僕はそういう風に世界を認識している。

…ような気がする。

 

というわけで、まさかゲームの戦術の話から人生全体の話に至るとは自分でも思ってもいなかったんだけど、とりあえず結論としては「自分の新たなる一面が知れて嬉しかったです」「やはり大切なことはいつもゲームから学びますね」ってことが言いたかった記事でした。